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タイトル 日 時
1戦後;6・3制教育
1945年8月、日本は英米ソ中国との戦争に負け、全面降伏しました。そしてアメリカを中心とした連合国軍隊が9月早々東京など大都市を占領しました。東京の日比谷にはGHQという「総司令部」(指令長官は米軍のマッカーサー)が置かれ、日本の行政機関は彼らの命令に従って動くことになりました。命令とは敗戦国が有無を言わさず戦勝国に従わさせられることですが、命令にはわれわれの過去の習慣とは大きく違っていることもあり、慣れるまでの約10年は、戦いにも勝る苦痛が多くありました。しかし平和が来たという悦びは日本人にそ... ...続きを見る

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2019/01/17 14:45
J−Aスタッス林社長との交誼
社長が団地の我が家に度々お見えになるようになったのは知己を得てからそんなに日月をえてからではない。社長の考案されたホーン付きのコンデンサースピーカーシステムの音の良さに私が熱中し、小型の家庭用品の制作をお願いしたからである。数年たって20万円をお支払いしたのを覚えているが。社時長はその音を気に入られ、帰宅時にしばしば、お寄りになり、二人で夕暮れの6畳間で音に耳を傾けた。40男と80男が薄暗い部屋で耳を傾ける。それは十分絵になる。 クラシックだけでなく、林さんが求めたのは私が10枚もコレクトして... ...続きを見る

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2019/01/17 11:27
J−3林スタックス社長(弔辞)
J−3林スタックス社長(弔辞) 対話が成り立つには二人の間に人間的交流が必要です。アーノンクールと私は、告別演奏会のとき、アンコールで私が舞台に近づいたときにだけ、人間的交流があったように、私には思えたので、対話ができたように思えたのですが、それが一方交通だったのは当然で後でしりました。無理に「対話」と名づけたのですが、以後の3つの対話は交流がある、本物の対話です。私が年をとったからこそうまれた「死者との対話」です。 ...続きを見る

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2019/01/14 11:09
J−2 スタックス林社長との交誼
J−2 スタックス林社長との交誼 W 個人的な話  以上はオーディオ入門がらみの話だが、まあ、これからいわば終着点の話、これがオーデオの全てなのだが、私は一人の人間として林尚武社長に会って、尊敬し、おり、思いもかけなかった出来事にもいくつか出会った。全期間を通しての話だが、「本質的に新しいこと」を追求される彼の姿勢に最も敬服したことだ。研究者でさえ、「本質的に新しいことではない事柄」を報告して点数稼ぎをしているのが普通である。私は本質的に新しいことは現実の世界に潜んでいると教えられ、また確信して研究をした。でもそんなものは多... ...続きを見る

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2019/01/14 10:55
J−1クラシック(スタックスオーデイオへの道)
学部の最後の年から育英会の奨学金をもらいましたが、月2千円では小遣い程度です。それが大学院に進むとかなり増額され、少しゆとりが出来たのを幸いに、オーデオ装置を作ってもらいました。院に入った次の年だと思います。大日本塗料(株)の天田さんという、レコード通に常識的なアンプ作成を頼んだのでした。天田さんとの交誼は同じ会社に私の中学の友人西田がいたからで、昭和31年(1956年頃)です。当時シェラックのSPからビニールのLPへと盤が変化し、在来盤の1面5分頑張って30分へと長時間演奏録音が可能になった時... ...続きを見る

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2019/01/14 10:43
(目次)東大での40年
東大での40年 1戦前   子供(1) 小児喘息と転居      (2) 小学生時代     若さ (3) 中学生時代と学徒動員      (4) 中学上級と浪人(酷い喘息) 2 .戦後      (1) 旧制高校と東大の合格       (2) 旧制高校とストーム      (3) 東大受験と合格 3 大学      (5)自我と野球      (6)自我と音楽      (7)クラシック,上下      (8)スタックス・オーデオへの道      (9)スタック... ...続きを見る

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2019/01/11 21:23
爺の女性観(3)旅先の女性
大学院の博士課程から助手にかけて、私はよくを旅をした。その度に女性と知っりあいになった。旅は出会い限られたきかいである。 この頃私は学生を連れて千葉演習林に度々いった。そこで女子職員と会う機会が繰り返しあった。Sさんと言った。鴨川の自宅を訪問したこともあった。そんな縁で東京でもあったような気がする。好意を持ったが、それ以上ではないとおもった。或る日助教授の先生に話かけられた。林長に謂われたが「善本君はSさんに気があるのかね。」先生は「善本君は女の子と仲良くするのが趣味だから、なんということはな... ...続きを見る

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2019/01/11 18:04
爺の女性観(2)教え子
東大に女子学生が入学したのは戦後である。旧制の最後に3人入ったのを憶えているが、新制になり、昭和24年に10人,その後少しづつ増え昭和35年には30人になった。3000人のうち30人、1000分の1だから、未だ誤差の範囲だ。そのゴミの一つが私の指導下に入るということになった。「事件」である。 こんなことはその後当たり前になってしまっhたが、あるところで止まってしまったらしい。昭和30年台の出来事は今もって「事件」といえる。 東大の女子学生というと世間は好奇の目で見がちであるが、前述の「女友... ...続きを見る

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2019/01/11 17:56
爺の女性感(1)女友達
私は88歳の男。もう数年前男性の機能を失った。その方面の欲望は昔から薄い方と思っている。40歳で結婚するまで女はを知らなかった。その後2児が生まれ、今大阪とデトロイトにいる。 1)15歳頃から女性に簡心を持つようになった。15歳で戦争は終わり、通学が始まった。今も覚えているが毎朝の通勤で必ず会う、女子高校生がいた当時第六高女(今三田高校)の生徒だった。二人とも意識しだしたが、私は声を掛けられなかったが、彼女が声を掛けてくれそうな機会が数度あった。その時私が応じたら、これで人生は始まったかもしれ... ...続きを見る

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2019/01/11 17:47
L自我の確立‥クラシック下
新即物主義 再生装置が出来ると、クラシックの世界は急に広がります。勿論最初に関心をもったのはシゲティです。幸いなことに昭和30年ころはLPが高いけれど買えました。当時の世界を思い出します。 ヨーゼフ・シゲティは 1897年生まれのハンガリア人で1973年没です。 ...続きを見る

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2019/01/11 17:23
J自我の確立:クラシック音楽
9自我の確立:ストームと野球とクラシック音楽 (ストーム)という言葉を憶えてあられる方はもう数少ないだろう。旧制高校の特殊用語だからだ。1年在学した旧制高校の生活中で、覚えた意味のある自主的教育用語だったように思う。 旧制高校は昭和23年に廃止になった。それは高級官僚が、旧制高校、帝国大学の学歴で高級官僚となり、軍人とともに、日本を破滅に陥れた制度とアメリカが考えたことに由来する事件のせいだが、旧制高校の教育が全て謝りだったのではない、と私は思う。上記自主的教育など、一部の過ちを除き、優れた... ...続きを見る

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2019/01/11 17:17
K自我の確立・クラシック上
1 クラシック音楽入門 1・1 音楽への切っ掛け 私の暮らしにクラシックが入ってきたのは勿論戦後です。母親が敷いてくれた音楽の道も少年合唱団員として放送に1度、ビクターの独唱コンクールに応募・受験に1回程度で止まりまり、むしろ少年時代は病弱な野球少年でした。その母は敗戦直前の昭和20年1月に死に、私は音楽から逃れる気持ちで青春を迎えたように思っています。 最後の旧制高校生として浦和高等学校に入り、周囲の若者が若者らしく、クラシックに関係を持った時も、私は一人仲間から外れていました。学制... ...続きを見る

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2019/01/11 17:05
I 自我の確立・ストームと野球
大学は昭和24年に発足した。私は1年生になった。そこは旧第一高等学校だった。駒場にあった。 大学正門の前で毎日アジ演説をしている仲間は皆同じ事を言っていた。自我がない。私には空しく思えた。では「お前には、自分だけしかないものに何があるか」と自問すると、ストームで学んだ「自分らしい」、と言えるものは何もない。悩んだ。24年7月からはじまったが、試験も受けず終わった。留年である。25年は病気休学。昭和26年の頃である。悩んで辿りついたのが何と「野球」だった。「野球」だけは小学生からずっと続けて居... ...続きを見る

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2019/01/11 16:50
H若さ・東大受験
旧制浦和高校にはいったものの、当初の約束で1年で卒業、学校は新制東大になるので同じ学校でも試験をうけねばならなかった。 義母と弟妹との拗れに明け暮れした昭和23年台のことだ。父はいい父になっていた。私は受験に明け暮れしなければならなかった。昭和24年、国会が拗れ、新制大学の発足が遅れ、入試が7月にずれ込んだ。3日間の入試だった。3日目、私は喘息発作を起こしてしまった。勿論深夜だ。家中が心配するなか夜明けが進んでいった。勿論父も「欠席やむを得ない」とし思っていたに違い。当時意地っ張りだった私は、... ...続きを見る

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2019/01/11 16:40
G若さ・旧制高校とストーム
旧制高校は一高三高などは明治に生まれた学校制度、浦和高校や水戸高校などは、大正生まれ、昭和に育ち、昭和22年まで生きていたエリート用奇形児育成制度だ。細かく論じたら、限りないが、彼らが駐留軍の目の敵になったのは疑いない。昭和23年廃校となった。最後の学生が私なのだ。 今でいう全員寄宿生活をし、従って特殊の社会が出来、言語さえ違っていた。入学は極端に難しく、在学期間は3年、それが終わると、ほとんど全員が旧帝国大学に簡易な入試で合格出来た。旧帝国大学は7帝大とも呼ばれ、東京帝大、京都帝大などは今東... ...続きを見る

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2019/01/11 16:32
F若さ・戦後の喘息
学校は始まったが教科書はない。生徒はノートをとるだけである。私の喘息は一層すすんだので、勿論ノートは、もうしわけないがとれない。毎日木村はその日とったノートを二冊品川から碑文谷の我が家まで運んでくれた。いくらタフでも連日の通勤にやがて木村は参ったらしく、2冊同時にとって毎日、一冊我が家に運んでくれた。 申し訳ないが、私は1〜2番を争ったが、彼は10^〜20番。それでも彼は浪人もせず慶応の法学部にはいった。 大学が違ったから、その後会う機会もへったが、40歳のころ彼を長津田の家を訪ねた。それか... ...続きを見る

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2019/01/11 16:16
E若さ・皇居前
「明日は天皇にお詫びをしに行こう」と木村と僕は約束した。次に日、二人は約束通り宮城前の玉砂利に膝をついた。似た仲間が周囲に集まっていた。あなりの人数だった。 以後私が宮城前に行ったのは数年後である。 木村は再開された学校(麻布中 )でであったが、きのう「東洋英和の女学生と仲良くなったはない。」」と嬉しそうだった。さらに数日後彼はその女学生と宮城前の石の上で、うまくやったよと自慢げだった。もちろん私にはそんな元気はない。 ...続きを見る

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2019/01/11 15:51
D若さ・敗戦前後
8月14日、粕谷先生から「明日i正午全合集合の通知」の通知があり、生徒は急のことで、何事かと緊張した。木村や僕は最後まで戦うよう決意しろとの命令が天皇から命令があるものと思ったが外人2世との噂があった青木だけが日本の敗北を予想した。そこで「もしそうなら我々は青木を殴るとやくそくした。 8月15日が来て青木がかった。 我々は竹槍での戦いさえおもっていたから、天皇の命令にも実感がなかった。木村と二人で家に帰ったのは確かである。 ...続きを見る

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2019/01/11 15:36
D子供・酷い喘息(中学上級)
4年生の夏、終戦の翌日,木村と皇居にお詫びにでかけた。二人とも、マジめだったのだ。 ...続きを見る

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2019/01/11 14:54
C子供・中学下級と学徒動員(母の死)
そんな病弱な私は父母の悩みの種だったのでしょう。学校の傍に越したのに、私はいつも家にいました。学年が進むごとに体は悪くなり、5,6年生は欠席ばかり、お家にばかりいました。(5年生は出席180日欠席66日、6年生は出席189日欠席76日)だから中学へ進むのも難しく、父母は悩んだようで、当時は中学へ行かなければ2年間の高等科へ進むのが義務教育でしたから、そのことも頭にあったようでした。それが小学校の担任佐原先生のご尽力もあって私立芝中学校に試験を受け、入学を許可されました。クラス50人中5番以内で入... ...続きを見る

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2019/01/11 10:40
B子供・小学校上級生
4年生は欠席が51日だったのに、5年生は66日、6年生は76日も学校を欠席しました。深夜に苦しんだ時、主治医の先生は深夜でも往診をお願いすれば来ててくださいました。先生は村田という元軍医海軍中佐の先生。両親が遠慮勝ちに電話をすると先生は何時でも来て下さって八畳間で注射をしたのを今でもおぼえています。ところが先生はエフェドリンなどという喘息薬ではなく、強心剤だけを注射して、「知孝ちゃん、喘息では死なないからね」という言葉を残してかえられました。かえ楽にしてくれない先生を当時は少し恨みましたが、これ... ...続きを見る

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2019/01/11 10:16
A子供・小学下級生時代(不思議な病気)
学校にはいっても夜中は、勿論喘息です。夜が明け、サイレンが聞こえてから家を飛び出しても間に合う学校でしたが、欠席は大変多かったから、担任の先生安元、岡田、佐原の諸先生は進級のための出欠の辻褄あわせに大変困られたことでしょう。下記の記録が通信簿にありました。1年生出席239日【欠席9日)2年生出出席245日(欠席4日)3年生出213日(欠席34日)4年生出席197日(欠席51日) ...続きを見る

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2019/01/11 09:58
@子供・小児喘息と転居
喘息に親が気づいたのは、4歳のころと聞いています。そこで小学校に入るとき、空気のいい家への引っ越しを考えたようで、学区制に従うなら駅からも家からも5分の向原小学校へはいるのに、15分の碑小学校へ入れる決心を親はし、住宅まで、当時あった寄留制度をつかって、知人の家に住んでいることにして碑に通わせたそうです。同時に、碑小学校近くに家を建てはじめました。完成は支那事変が起きた昭和12年でした。入学は昭和11年4月、引っ越しは空気が変わるから、喘息にいい、と当時は考えられていたけど、引っ越し後も私の喘息... ...続きを見る

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2019/01/11 09:40
テイ-レマンとカイザーの会話(第九)
ベート―エんの中心作品というと第九を上げるのが、普通だろうが、この会話の冒頭は第九がプラスアルファとしている。第一と第二、第三と第四、第五と第六、第七と第八というつり合いの取れた作品が取れた作品が並んでいるから、第九は別の系列にはいると、言うのが、第九の位置づけになる。私はふてたりの説に関心した、第九で彼h新しい世界を開かんとしたのだ。8曲でバランスの良い曲を2曲づつならべた。合唱がはいった第九以下では、新しいバランスの作品を書こうとした。それが未完成に終わったのが第九なのだという。この説は私の... ...続きを見る

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2019/01/11 04:23
ローエングリン
この作のすぐあと「オランダ人」を書いた。そこでは日頃絵で触れていることによって、実物にであったとき、乙女はk無限の恋におちていた。エルザが育ちが不明のローエングリ―ンの秘密性に耐えられなかのと正反対である。ローエングリン音楽のロマン性でごまかされたといったら言い過ぎだろうか。あの序曲のロマン性がきくものの理性を麻痺させてしまうせいかもしれない。 ...続きを見る

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2019/01/06 10:37
新年おめでとうございます
新年で当然新しい作曲家の話をして取り上げる筈ですが、今は正月ボケです。ブログの感想をいただきました、づっとブログを読んでくださっている方のメールをいただいたことです。とても嬉しいことです。お会いできる機会もきたいしていますもう週一回を10年続けています。今年は昨日89歳になりました。頑張れる限る頑張ります。どうぞよんでください。話題が今はワグナーですがが,今後どう変わるかわかりません。(善本)  ...続きを見る

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2019/01/04 10:21

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善本知孝のブログーOpera-Crasy 2019年1月のブログ記事/BIGLOBEウェブリブログ
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