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zoom RSS J−3林スタックス社長(弔辞)

<<   作成日時 : 2019/01/14 11:09   >>

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対話が成り立つには二人の間に人間的交流が必要です。アーノンクールと私は、告別演奏会のとき、アンコールで私が舞台に近づいたときにだけ、人間的交流があったように、私には思えたので、対話ができたように思えたのですが、それが一方交通だったのは当然で後でしりました。無理に「対話」と名づけたのですが、以後の3つの対話は交流がある、本物の対話です。私が年をとったからこそうまれた「死者との対話」です。

林さん、長いお付き合いでした。林さんは1906年生まれだった、と覚えてます。最初の出会いは昭和34年(1960年)でしたから、亡くなられる2000年7月24日まで交流期間は40年間にもなります。初対面の1960年には林さんは、もう54歳になっておられたから、30歳の私とは大変な年の差。若造にすぎなかったのに、一人前の人間として扱ってくださいました。林さんがいいお育ちだったせいでしょう。
当時林さんは池袋,雑司が谷の高級住宅にお住まいで、それも大正リベラリズムの匂いを感じさせるものでしたから、私はには大変な紳士と感じられました。お話だと日本火薬系のオーデオ部門として仕事をされていたようです。
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そんなことより私が引かれたのは学者のような風貌で、新しいアイデアで製品を作る仕事ぶりでした。例えばピックアップは磁石に中に、レコードの溝で振動した針から音をとりだすのが当時常識だったのに、林さんは金属間に電気容量を持たせ、その間に振動している針をつっこみし、電気容量お変えさせ、それをスーパーヘテロダインラジオのような方法で発信した電波にのせ、溝で生まれた針の振動のみを取り出し、其れを音声に変えるという、とてつもない考えで、これををオーデオの世界に取り込んだの夢でした。コンデンサーピックアップです。こんな方式は世界で林さんしか特許をとっていません。何回目かのとき、私がラッススのミサを持っていってその音を聞かせてもらいました。繊細でシャープ、すぐ魅了されました。それがご縁で社長さんと口をきいていただけるように、なったのを鮮明に覚えています。
そのとき使ったのがコンデンサースピーカーで、スピーカーは世界的にはクワードが先で、林さんは後発でしたが。聞かせていただいた音は抜群でした。何回か後にそれにホーンをつけたものをつくっておられ、巨大なホーンが中央スピーカーについていました。歯切れがよく見違えて聞こえたので、独身時代だった私は『こんなのを家に入れたい」とお願いしました。以来大きなホーンを小型にされる努力をしたらしく、何回目かの訪問のときには完成し、納品されることになりました。ホーンの後ろに大量のコンクリートがつまっているユニークなものでした。試験的製作ですから、価格未定のままでしたが。家では、見違える音が聞けました。

私は高音とのバランスだけは不満でしたので其れを言うと、チンピラの言葉なのに、取り上げ、検討し、最後は高音用のツイーターをとってしまわれました。これで私の気に入る音になりました。

これがのちのち林さんの愛好品にもなり、其れを聞くためだけに、清瀬の小宅にこられました。今でも覚えている事件があります。当時私が好きだった森山良子の音をおきかせしたところ『処女の声ですな、」としきりに感服されていました。机の上の寿司をほおばりながら、夕闇せまる団地の6畳間で処女の声に耳を傾ける二人の中年男。生涯の記憶に残る絵です。
林さんはこのスピーカーをよほどお好きだったようである。私が肺炎で入院中の1994年に息子さんとみえ、スピーカー聞いていかれたそうだ、これが私のスピーカーと林さんとの出会いの最後になりました。林さんの遺作となったスピーカーもホーン型でつくられたそうですが、まだ私は聞いていません。

話は大分遡りますが、「林さんの会社は最初昭和光音という名でした。光を音に変えるなんて、今ならCDを思い浮かべる斬新な名ですが、当時塩ビのCD盤などありませんでしたし、CDが普及したのは1980年ですから、「光音」の名は50年は早かったことになります。
何度も何度も雑司が谷のお宅に訪問し、社長さんがいれば、お話をして帰りました。
当時一介の大学助手だった青年に社長さんは何を感じられたのでしょう。親子丼がでる日もおおくなったから、当時からお客以上の何かを感じてくださったのせしょうかね。

10年くらいたってあるとき社長室で奇妙な道具をみせられました。スピーカを頭の被せた感じで、スピーカーをコンデンサーの原理で作ったものだそうでイアースピーカーという名でした。被るとなんともいえぬ透明で柔らかな音でした。少し腰が弱かったのはコンデンサーに避けられない音だったからでしょう。
林さんの口からこんな言葉がもれたのを覚えています。
「イアースピーカーが売れて売れて、お金がボコボコ入ってくれるから、働いている人が賃上げを要求してくるのは当然にしても、事業の拡張さえ提案してきました。これは困ったことです。」私は「あんころ餅」やは生涯「あんころ餅やでいい」とおもっていますが、どうおもわれますか。」何と経営相談である。私は一お客から進歩あい出を受けました。信頼されて好意に感激したものの。当時私は東大助教授でしたからね。林サンはそういうべき

「スタックス工業」に社名を改名したのは工場が埼玉の三芳に移ってからです。1968年ではなかったでしょうか。そこは私の家から車なら15分でいけるから訪問の回数は増えました。経営相談があった数年たって、こんな話がありました。あるとき林さんは真顔でこうおっしゃった。
『善本さん、この会社に来る気持ちはありませんか?」
この言葉には驚きました。当時はもう助教授になっていましたから、東大で一生を終えられる可能性はおおきかった。つまり東大教授で生涯を終えるつもりだったのです。
「林さん、あの提案は本気だったのですか。息子さんが私より20歳も年下でしたから、本心だったかしら、」ともおもう。それに林さんはトッピもない言葉をときに出すから、本心からでたものとも思いますが。林さんはそういう人柄で、私はそれが好きです。
「林さん本気だった」死者におききしたい。

もうあの世の林さんに、言葉の真意は確かめかねるが以後の会社の運命をしるものとしては断ったのの後に残るものがある。林さんが亡くなって、会社の経営権は移ってしまったし、今は中国人の名で残って、高級オーデオはイアースピーカーだけになってしまったから。
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               イアースピーカー
話しはもどる。以後たびたび三芳の工場を尋ねた、突然でも厚遇され、ときには奥さんも出てこられた。帰りは階下まで送ってこられるのが慣例だった。そこに林さんの年を感じたのは大分後のことだったか。
私は『正月」は音がいい、と口ずさんでまもなく、研究室に直列の乾電池が10台も並んだことがあった、そしてパワーアンプの試作が続いた。トランスの改良も進んだ。これがスタックスの命取りになったように私は思っている。ステレオのコンデンサーピックアップが発売されのたは世間より10年遅れてた。製品は完璧で今でも愛用している。それに関してこんな思い出がある。私が買った直後、林さんが我が家にお見えになり、生むもなく、新しいカートリッジをとりだした。「この方がいいですと。求めたのは表面が平らだったが、新品は円形になっていた。交換代は無料そういえばスーピーカーの価格の請求があったのは奥さんからで、「税務署対策で、支払っていただきたい」とのことだった。左右で20万だった昭和44年8月のことだった。43年8月入荷だから1年後である。あのときの電話での奥さんの声は忘れられない。

2000年8月林さんが他界されたが、私はイギリスへいっていたので知らなかった。後日11月にご自宅にお悔やみにいったが、奥さんは私のことが痴呆でわからなかった。数ヶ月でなくなった。今度は葬儀に出さしてもらった。

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