イタリアバロック(5)バイジェルロ喜劇「ニーナ」(H66)

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                 バルトリ
パイジェルロはブッファ喜劇だけを書いたのではありません。セリアの「ニーナ」をとりあげます。これはナポリで名をなした、パイジェルロがロシアに8年居て、再度ナポリへ帰国、そこで作ったオペラ(1789年)です
DVDは指揮アダム・フィツシャー指揮チューリッヒ歌劇場オケ
(   )内はDVDの歌手です。(1789年作)
ニーナ・・・・恋ゆえに狂った娘(チェチーリア・バルトリ)
リンドーロ 婚約者(ヨナス・カウフマン)
伯爵    ニーナの父 ( ポルガー)
スザンナ   女中(ガルスタン)

筋はこうです。
伯爵は娘ニーナを相思相愛のリンドーロの嫁にやろうと思っていましたが、急に身分の高い相手に変えたのでニーナは動揺しました。リンドーロは相手に決闘を申しこんで負けて死んだと知らせが入り、ニーナは発狂。しかし傷をおうただけとわかり、父親は反省し、二人の結婚を認めます。しかしニーナの狂いは止まらず、リンドーロにa会ってもこわがります。彼の熱烈な口説きから彼女の発狂はもどり、二人は祝福され結ばれます。

これは、パイジェルロはドラマ・ジョコーソと呼び、「冗談なドラマ」としています。モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」もドラマジョコーソですから、「ニーナ」がジョコーソと呼ばれるのは違和感があります。
オペラは破談の話が終わり、ニーナが発狂しているところから始まります。それまでの経過は女中スザンナが全て話しています。ほとんどがニーナの狂乱の場といえそうで、ドニゼッティの「ルチア」に似ています(内容から言えばベルリーニの「清教徒」です)。曲はモーツアルトを思わせるもので、ロマン派の時代になっても反復上演されました。内容がロマンチックなもので深みもあるからでしょう。目立ったのはレシタチーボがドイツオペラのように殆ど会話でおこなわれていることです。ブッファと呼ばれる所以でしょう。
聞いているとモーツアルトを思わせる響きにであいます。パイジェルロは1750年誕生、モーツアルトは1756年誕生ですから、住む場所は違って居ても人気者と不人気者の違いはあってもお互い影響しあっても不思議ではないでしょう。この作品はパイジェルロのオペラの中でもっともモーツアルト風と言われ、戸口幸策氏の「オペラの誕生」によると、 (はじめはモーツアルトに大きな痕跡を残すような影響を与えたパイジェルロも、この頃になると、逆にモーツアルトの音楽から吸収するとことろが大きかったのかもしれない)とのことです。ちなみに作曲された1789年はオペラ「コシファントッテ」の作曲年当然「フィガロの結婚(1785)、「ドン・ジョバンニ」(1787)は作曲されています。
「ニーナ」は1845年頃まで再演が続き、このオペラロマン的雰囲気は19世紀前期の風潮に適っていたことがわかります。

パイジェルロ(1740-18169はナポリの出身ですが、ナポリ、ロシア、ナポリと居を移し、作品が当世受けした以外、当時の音楽家なみの暮らしでした。彼とく比べザルツブルグ侯の庇護を拒否したモーツアルト(1756-1791)は「イドメネオ」以降独立して生計をたて,作品が受けず経済的に苦しい生涯をおえました。ヴィバルディ(1678~1741)に至ってはヴェネチア生まれ。音楽教師として一生を送り、、目覚しい履歴は1703年に司祭だけ。ピエタ音楽院で過ごしたようですが、契約がきれてオペラを作り始め各地に巡業したものの1741年持病の喘息で劇場の宿舎で死に、遺体は貧民病院の墓地に埋められるという恵まれない生涯をおくりました。ハイドン(1732-1809)はエステルハージー侯の庇護で安定した生涯をおえ、次に紹介するサルエリ(1750-1825)はヨーゼフ2世の庇護で宮廷音楽家の称号を得、安定した一生をおくったのは有名です。こうしてみるとごく僅かな誕生年のずれが世俗的一生の命運を変えたのは驚くほどです。フランス革命(1779)前後の厳しい経済情勢が如何に強く作曲家に影響を与えたかがわかるとともにベートーヴェンの独立心に驚きます。

DVDは1986年版ですが、バルトリとカウフマンが出ており、見事な演奏になっています。バルトリの「ルチア」を聞いたことはありませんが、ここでは彼女特異の声色の変化が巧みにつかわれ、見事です。カウフマンはまだ無名だった筈ですが,十分大役をこなしています。

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