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zoom RSS 少年時代と戦争4(勤労動員)

<<   作成日時 : 2018/02/03 05:25   >>

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 成績のない通信簿,
(3年生は2学期と3学期に成績は記入されていない、4年生は8,15敗戦から9月末まで短期間授業があったとみなされ、1学期から成績が記入されている)

昭和19年(1944)は3年生で,新学期は始まったものの、勉強は中止。
(強制疎開の補助)春は勤労動員ということで、国鉄沿線にある民家を破壊する仕事に狩り出されました。空襲時延焼から線路を守る為だそうです。私たちは大井町から大森の間の担当でした。立派な家を太い綱で引倒しバラバラになった家の部材を更に破壊して運び出す仕事です。今ならとても目をあけて見られません。2ヶ月でしたから残余の期間で試験はありました。

(勤労動員)1944年秋からは学校に行かずに工場へ行くようになりました。毎日、西小山から学校とは反対方向に電車にのり、蒲田駅経由で池上駅でおりました。通学ではなく通勤です。2,3学期は成績・出欠は残っていません。
50人ばかりの生徒が皆同じ工場へ行って、工員のような仕事をしましたが、私は体が弱いということで50人中1人だけ事務職の手伝いをさせられました。戦争中の軍事会社を私たちは経験したことになります。所謂産業報国です。飛行機の脚(オレオといった)を作る工場でしたから、忙しい筈でしたが、部品の調達が順調に回転しなかった所為か、実質はのんびりしたものでした。われわれ学徒などいなくてもいい、と思えた程でした。
1年間は大人の仲間入りし、若さゆえちやほやされ、日々が過ぎましたが、思えば勿体無い、青春前期を過ごしたものです。当時は中学2年(小学校は高等科2年ともよばれた)までが義務教育でしたから、3年から中等教育が始まったのです。この時期にしか学べないもの、例えば語学などがあった筈でしたが、それらは全く無視されました。私の英語力が後日の受験勉強でも回復できなかったのは一部その所為だと想っています。それに当時は未来を考えることがなかったのも、今に残る悪癖です。どうせ軍隊に取られるのだから、早く適職を軍隊という組織の中で見つける、それが唯一の希望でした。何が自分に合った仕事を探がすなどの考えは生まれず、これが大人になった後も続き、空想はせず、現状の中で何か夢を探すという習慣が身についてしまったようです。戦争は夢のない一生を私に植え付けてくれました。

米軍がフィリッピンのレイテ島に上陸したのは1944年10月でしたが、首都マニラがあるルソン島には12月下旬に上陸しました。その間に日本海軍の総力をあげた戦いがあり、大損害を蒙ったのですが、強くは報道されませんでした。先日発見された沈没した戦艦「武蔵」が{当時は存在さえ秘密でしたが)撃沈されたのもこの戦です。レイテ湾突入時の戦いでしたが、同時に空母4隻、戦艦3隻を失うという、壊滅的打撃をうけたのだそうですが、確か新聞には1面下の方に「レイテ沖海戦」の記事を見た覚えがあるだけで、相変わらずの「わが軍の損害は軽微なり」の文句があっただけでした。

フィリッピンをほぼ攻略した米軍の次の目標は硫黄島と沖縄でした。今でも印象に残っているのは硫黄島での敗北で1945年2月に米軍が上陸し、1ヶ月後、日本守備隊は全滅しました。当時でさえその悲惨な記事を新聞で読み、ショックを受けたほどです。沖縄本島への上陸は4月1日です。硫黄島より沖縄は遥かに身近で、住んでいる知人もないわけではなかったから、そこの戦場化は私には他人事ではなく、戦後も昭和70年頃まで、私は沖縄を訪問する気にはなれませんでした。沖縄人に悪いことをしたという強い思いがそうさせたのです。
その頃は東京をはじめ日本各地へも爆撃が始まっていました。

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