⑥若さ・皇居前

「明日は天皇にお詫びをしに行こう」と木村と僕は約束した。次に日、二人は約束通り宮城前の玉砂利に膝をついた。似た仲間が周囲に集まっていた。あなりの人数だった。 以後私が宮城前に行ったのは数年後である。 木村は再開された学校(麻布中 )でであったが、きのう「東洋英和の女学生と仲良くなったはない。」」と嬉しそうだった。さらに数日後彼は…
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⑤若さ・敗戦前後

8月14日、粕谷先生から「明日i正午全合集合の通知」の通知があり、生徒は急のことで、何事かと緊張した。木村や僕は最後まで戦うよう決意しろとの命令が天皇から命令があるものと思ったが外人2世との噂があった青木だけが日本の敗北を予想した。そこで「もしそうなら我々は青木を殴るとやくそくした。 8月15日が来て青木がかった。 我々は竹槍での戦い…
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⑤子供・酷い喘息(中学上級)

4年生の夏、終戦の翌日,木村と皇居にお詫びにでかけた。二人とも、マジめだったのだ。 戦争が終わって日常生活になったら、喘息が復活した。勤労動員のときにが何でもなかったのに。 学校へ行っても教科書がなかったから、先生のノートでの講義だった。生徒は其れを写すのが勉強、私のように学校に出られない生徒には方策がない。幸いなことに、一緒に…
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④子供・中学下級と学徒動員(母の死)

そんな病弱な私は父母の悩みの種だったのでしょう。学校の傍に越したのに、私はいつも家にいました。学年が進むごとに体は悪くなり、5,6年生は欠席ばかり、お家にばかりいました。(5年生は出席180日欠席66日、6年生は出席189日欠席76日)だから中学へ進むのも難しく、父母は悩んだようで、当時は中学へ行かなければ2年間の高等科へ進むのが義務教…
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③子供・小学校上級生

4年生は欠席が51日だったのに、5年生は66日、6年生は76日も学校を欠席しました。深夜に苦しんだ時、主治医の先生は深夜でも往診をお願いすれば来ててくださいました。先生は村田という元軍医海軍中佐の先生。両親が遠慮勝ちに電話をすると先生は何時でも来て下さって八畳間で注射をしたのを今でもおぼえています。ところが先生はエフェドリンなどという喘…
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②子供・小学下級生時代(不思議な病気)

学校にはいっても夜中は、勿論喘息です。夜が明け、サイレンが聞こえてから家を飛び出しても間に合う学校でしたが、欠席は大変多かったから、担任の先生安元、岡田、佐原の諸先生は進級のための出欠の辻褄あわせに大変困られたことでしょう。下記の記録が通信簿にありました。1年生出席239日【欠席9日)2年生出出席245日(欠席4日)3年生出213日(欠…
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①子供・小児喘息と転居

喘息に親が気づいたのは、4歳のころと聞いています。そこで小学校に入るとき、空気のいい家への引っ越しを考えたようで、学区制に従うなら駅からも家からも5分の向原小学校へはいるのに、15分の碑小学校へ入れる決心を親はし、住宅まで、当時あった寄留制度をつかって、知人の家に住んでいることにして碑に通わせたそうです。同時に、碑小学校近くに家を建ては…
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