ヘンデル(19)オペラ「ロデリンダ」(2)(H45)

画像
             ロッシュマン   
このオペラは(29)で取り上げたが、相変わらずアーノンクールのDVDは出ていまない。しかし日頃似た演奏をするとおもっていたW・クリステイの優れた演奏が出、聞く機会があったので感想をのべます。
ヘンデルオペラの演奏にははっきりふた通りあります。前回の「ロデリンダ」(ベルリン国立)に代表されるような、現代風に置き換えたもので、衣装が背広などという表面的なことだけではなく、演奏に遊びが全く消えた心理劇であるものと、前回再度取り上げた「アルチーナ」(ウイーン国立)のようにダンスも含んだ、オペラ・セリアの特色を十分もって遊びの面が強調されているもののです。後者はなかなか出会えませんが、W・クリステイのものがそうでした(グラインドボーン98)原作ではアルト・カストラートがベルタリッド役、ウヌルフォをしますが、ベルリン、グライン両公演ともアルト・カウンターテナーがベルタリッド役、ウヌルフォ役をやっています。特にグラインド・ボーンでは名手アンドレアッス・ショルが演じているのが目立ちました。
舞台は応接室と墓場の2本だてで、バロックオペラの派手さはありません。女性はロデリンダとエドヴィケ、男性は僭王グリモアルドと悪役ガリバルド、王に忠臣ウヌルフォ、単純な構成です。ガリバルドが心理的な陰謀で舞台まわしをしますが、グラインドボーンの方が控えめです。
彼は先王の妹エドビケとの婚姻を通して王位を狙っています。グラインドボーンでは彼の活躍は表面化していません。グリモアルドとロでリンダとの関係に焦点があたっています。
画像
                  ショルとアントナッチ
二つの公演全般を通じ大変違う印象を与えるのはガリバルドの扱いだということに最近きづきました。ヘンデルの台本では彼が表面に出て、王妃の子供フラヴィオを殺そうとします。この扱いはバイエリッシュ国立でもとられていますが、グラインドボーンでは殺意が隠されています。このことが公演其のものの性格を大いに変えるのに大いに寄与している、と最近気づきました。
それが顕著にみえるのは第一幕です。グリモアルドが執拗にロデリンダに求愛するのをおロデリンダはかわすため、グリモアルドの気の弱さを見抜いたロデリンダはそれを逆手にとったグラインドボーンでは子供を自分の手で殺せと迫ります。この論理はヘンデルの台本では使えない筈です。何故ならそれ以前に子供の殺害をロでリンダはおどかされているからです。グラインドボーンでは子供は取引の材料にはなっていません。
(勿論気の弱い僭王には不可能です。僭王の弱さは最終場面で明確化します。)
ガリバルトとロデリンダの心理的あやはグラインドホーンが巧妙であり、再度の結婚のすすめでは、ガリバルドの圧力をロデリンダは逆手に使い、「お前が私にグリモアルドとの結婚を強いるなら、私が王妃となったときお前を殺す」と強気をしめします。更に僭王グリモアルドには結婚の条件としてガリバルドの首を要求します。こんなとこにもヘンデルのユーモアがグラインドボーンでは巧妙に使われています。
最後の山場は主役が揃った墓場での出来事です。脱獄したベルタリッドと脱獄を補助した妻やウヌルフオとの対決の場面ですが、先ず王がガリバルドをうつ場面ではじまり。部下の介添えもあり、僭王が命ずれば全てが決まる段階で、気の弱い僭王がついに屈服する場面ですが、この緊張感あふれる場面は圧巻です。バイエリッシュ国立の場合、見栄えのしない状況として示されますが、子供フラヴィオの扱いを曖昧にしていたグラインドボーンの場合、両者の対決は鮮明になり、幕切れをみるとバロックオペラのセリアの面白さを堪能します。殺人が幕切れではないのです。
王が以後の人事を決め、それにつれて、グリモアルドの王妃となるエドヴィケもあらわれ、打たれたガリヴァルドも不自然でなく生きかえって、全体の暗さが払拭され、セリアのハッピーな幕切れが、自然に実現し、合唱で幕がとじられます。モーツアルトの幕切れをおもわせます。オペラは楽しみのためのものだと改めて思いました。
抽象的にオペラセリアのつまらなさを思っていた私、 オペラジョコーソの楽しさをフィガロの結婚から想像していた私、その浅い理解はヘンデル・セリアで目からウロコを落としてくれました。グライドボーンの演出はジャンーマリー・ヴィレギアー(1998年)

"ヘンデル(19)オペラ「ロデリンダ」(2)(H45)" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント