ヘンデル(17)不人気オラトリオ「テオドーラ」(H43)

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ヘンデルは敬虔なキリススト教徒ではないと読んでいましたが、どうしてこんなに重い宗教的題材を選んだのでしょうか。私が聞いたのは
アーノンクール指揮コンツエルト・ムジークの外に
クリステイー指揮エイジ・オブ・エンライトメントの演奏でこれはオペラ風改編れていました。
私の体験はこの二つですが
、音楽はいずれも透明です。
オラトリオの多くが旧訳聖書からで、昔話とも言えるものでした。これは殉教ものでロバート・ボイルの原作、台本はモーレル。4世紀はじめ。古代ギリシャの首都アンテイオキア(今のトルコ南部、シリアとの国境付近)の出来事。ローマの総督ヴァレンズは皇帝の誕生日をローマの神々に捧げものをして祝うよう市民に強制し、従わないものは罰すると通告します。神父の説教も軍人監視下で行われるほどでした。しかしこの説教は邪教気味でした。
熱烈なキリスト教徒テオドーラと彼女を愛し、キリスト教徒に改宗している、ローマ軍人デイデイマスとが繰り広げるドラマです。ディディマスはセプティマスを説得し牢獄中のテオドーラと会うのに成功し、彼女を説得し、服を交換します。彼女は自殺を決意していましたが、クリスチャン仲間に戻れ、デイデイマスは処刑の道を歩みます。彼の死刑を聞き、彼女も軍に処刑を申し出、二人は自分が罪を受けるよう言い合いますが、最後は二人とも処刑されるのが原作です。
これにセプテイミアスが共感者し、仲間に加わる話もあります。

この作品は、思想の自由、陵辱を避ける為に自殺することの道徳的妥当性、宗教と国家権の対立といった問題にも触れています。音楽は殉教する恋人たち、テオドーラとディディマスの精神の高貴さ、また異教徒とキリスト教徒の集団の対比を崇高に描き出しています。人気がないのは問題が大きすぎるのでしょうか?

この作品に人気がないのは制作当初から有名です。(それなのに今も10種余りのCD、DVDがでています。)
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ホグウッドのヘンデル伝にありますが「1749年の(テオドーラ)は誠に不幸なことに人々から見捨てられた。だから彼はチケットや入場優待券をもらってくれる御偉方がいるだけで喜んでいたが、誰も劇場に足を運ばなかった。二人の紳士がこうした「テオドーラ」の不人気のあとで、ヘンデルに【メサイア 】の優待券を申し込むと、彼はこう叫んだ。「おお、下賎の者、なんということを!いまいましい、まやかまし屋め。(テオドーラ)には来ようとしなかったではないか。――あれが上演されたときにはそこでダンスができるほど(ガラガラ)だったというのに」

台本作家モーレルは1770年頃の手紙にこの作品に対するヘンデル自身の高い評価を書き留めています。
「「メサイア」のグランド・コーラスを自分の自分の傑作と思わないか」とヘンデルに尋ねたことがある。すると彼はは 「いや(テオドーラ)2部の終わりに出てくる合唱「彼は愛らしい若者をみそなわし」の方がはるかに優れていると思う」
と答えたそうです」

傑作であり、深い問題をて維持している「テオドーラ」の不人気はオラトリオと言う形式の問題を提示しまるようです。ホーキンスの言葉ですが、「このロンドンという都市の趣味は、劇的な形の娯楽を求めるものであり、ヘンデルもそれに従わざるを得なかった。彼は次のように言ったもんだ。「イギリスの聴衆にとって音楽と詩だけでの娯楽は十分でなく、彼らの注意を一夜引きつけておくには、陰謀とか作り話が必要なのだ」と。ヘンデルのこの考えは誤っていたのかもしれない。というのも(イギリスのイスラエル人(陽気の人,塞ぎの人)(メサイア)の成功はその逆をしめしているからである。しかしこの考えが、娯楽に対するヘンデルの態度を決めたのであり、劇を作り上げる際にしばしば中程度の詩人に頼るようになった原因でもある。このような作品は感情、あるいは言葉とも関係なくあるいは劇の大筋以外のいかなるものとも関係なく、全てが単にヘンデルの音楽のための手段であった。たとえば(エステル)(サウル)(スザンナ)、その他多数がそうであった。
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陰謀や作り話のない「テオドーラ」に人気がないのは当然とヘンデルは考えたようですが、ホーキンスはそんなものでもない。ヘンデルはいつも自分の音楽を聞かせたがっている。不人気は音楽のせいだといっています。この論説はどちらも「テオドーラ」の不人気を説明しているように私には思われます。

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