ヘンデル(1)登場(H27)

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バロック時代の人々には言語がどんな障害になっていたのでしょうか。音楽は国際語であるにしてもイタリア語でオペラを書かき、日常語をドイツ語から英語に変えるのは大きな障害があったに違いありません。
ヘンデル(1685-)はハレの田舎からハンブルグにで、ある程度の名声をえてから、イタリアを経てロンドで決定的名声をえました。彼は今メサイアの作曲家として有名ですが、実はオペラの作曲家として当時は名をなし、今もそうです。
ヘンデルはイギリスへ行くまえにイタリアのフィレンツエにいってます。1,706年のことで、ヘンデルは21歳です。フィレンツエの王子の招待ですが、意地を張って旅費は自前で、以後いろいろ王子の世話になります。ヘンデルはいい作品をつくることより、名演奏家として知られていたようです。オルガンの名手として格別名声がありました。当時はスポーツのように、演奏技術を二人で競うことが公開でおこなわれました。ローマでは有名なコレッリが相手となったことがあり、ヴァイオリンで競ったとき、ヘンデルの作品でコレッリが高音部でとちり、ヘンデルがヴァイオリンを借りて難なく引いたそうです。人柄のよいコレッリの対応に以後二人は仲良くなったそうです。
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コレルリ
コレッリは優雅で繊細な音楽をつくりますが、ヘンデルは豪壮雄大でしられています。相互の影響はあった筈です。そのあと、ナポリ、べネツイアで腕を披露しまし、ドメニコ・スカルラッテイとも争ったそうです。当時ローマではオペラが禁止されていたので、オペラの代わりに、所作のないオペラ、オラトリオ「ロドリーゴ」を披露、ヴェネチアで書いた[アグリッピ―ナ]とともにイタリアで書いた二つのオペラとなりました。       「 アグリッピーナ」は悪亭ネロのははおやですが、史実は自由に変えられており、所詮ヴェネチア風アンチ・ヒロー・喜劇となっています。入りくんでいますが、話の最初はオットーネを皇帝に、ネロにホッペアをあてるという案でしたが、オットーネはポッペアと愛で結ばれるという風に最後は変わっています。この作品の中で過去の作品のアリアやカンタータを3箇所も使うという、以後もたびたび行われる盗作があります。
 1)エストマン指揮ロンドン・バロック・プレイアーズ 
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イタリア訪問後ハレに戻りマます。ハレはライプチッヒからバスで1時間の田舎都市。今はヘンデル記念館がありますが、ここはバッハ生誕の地アイゼンナッハ,と終焉の地ライプチッヒの中間にあります。ここからイタリアへ行ったのは、へンデル・オペラの基礎がイタリアオペラであるので当然でしょう。もう一つ彼の作品に影響を与えたのが、訪英後のパーセルです。アーノンクールはこのことのを指摘しています「イギリス音楽の偉大な時代はパーセルをもって終了するが、音楽家人生の大半をイギリスですごしたゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデルも最後のイギリス・バロック音楽の作曲家とみなされるべきである。ここでもまたイギリスの音学的風土が作曲様式を形成したことが注目される。ヘンデルの作品は事実上パーセルの創作を引継いだものであり、パーセル抜きには考えられない。イギリス以外どこにおいても書かれ得なかっただろう。ヘンデル以上に感動的な旋律を書いたバロック作曲家はいないが、これは疑いなくパーセルの影響に帰せられる。」(古楽とは何か)
アーノンクールはイギリス・バロックの特徴をこう書いています。「バロック時代、イギリス以外の諸国では外面的効果が決定的に重要だったのに対し、イギリス人にとっては表すべき内容の深さの方がずっと重要でした。――」〈古楽とは何か〉
パーセルのヘンデルへの影響はパーセルの知人も指摘するところです。トーマス・タッドウエイはパーセル氏のほうが一層高貴で格調ガ高い。と付言していますが。
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                       ハレ
6)アグリッピーナ(1709)

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