88歳男が晩年を思う

男が88歳なら、彼のいう晩年とは定年前10年が適当だろう。自分が過ごした最後の10年を適当だったか、他の生き様は無かったか?
その年の生き様は仕事だけではない。普通なら、仕事そのものと、外部から襲い掛かる雑務が普通はある。88歳になった今それを思う事しきりである。
大学の教師だった私には仕事とは研究だった。外部から有無を言わさず襲ってく先ずるのは他人との絡みあいだった。
抽出成分は南先生が東大薬学部で学び、森林化学に導入したもので、関連分野では唯一学問的だったし、私が先生から博士論文として指導されたが、当時一種の流行で、他研究室でも類似研究が行われていたから、晩年に抽出成分研究の研究をする気はなかった。学生に頼もうと思っていたが、鮫島君(後の鮫島教授)が何とタンニン成分の研究をしたいというので、「無理か」と一時ためらったが、縮合型タンニンさえ見事にこなしていくのを見て、安心し、彼にまかせた。
私がやったのは何と光化学だった。偶然もあった。「助手になって、南先生の手伝いで、セメントの硬化不良が木の光分解により、起こることが分かり、光化学を晩年取り上げる気持ちになったが、先生の希望でこれは台湾留学生のホウさんに渡してしまい残った仕事は僅かに思えた。残ったのは「光劣化した木材とセメントの硬化」だった。この仕事は泥臭く、とても学生には渡せない。技術は単純で、忙しい老人に相応しいと考え、これに決めた。

人事の問題は大変複雑な問題があった。私は筆頭時由、福住氏を差し置いて採用された助教授だったから、彼が恨んでいたのはしっていたが、それが教授昇進にトラブルを生むほど根深いとは気づいていなかった。教授選考委員会以前に彼は学科のボスと思われた中野教授を巻き込み、学部教授会に選考委員会意見として、「二人助教授」を提案、私の足を引っ張ることを画策した。これは学部中枢の反発を買い。提案にもいたらず、私の昇進が提案され、学部教授会で承認された。
助教授は高齢を理由に福住氏を考えていたが、決定以前に中野ボス教授のアドバイスがあったのは今も忘れ、られない。余計なことを考える男だ。これでは木材学会長のもなれなかったのは当然だろう。
数年後福住氏が退官し、後任を選ばねばならなくなった。

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