1戦後;6・3制教育

1945年8月、日本は英米ソ中国との戦争に負け、全面降伏しました。そしてアメリカを中心とした連合国軍隊が9月早々東京など大都市を占領しました。東京の日比谷にはGHQという「総司令部」(指令長官は米軍のマッカーサー)が置かれ、日本の行政機関は彼らの命令に従って動くことになりました。命令とは敗戦国が有無を言わさず戦勝国に従わさせられることですが、命令にはわれわれの過去の習慣とは大きく違っていることもあり、慣れるまでの約10年は、戦いにも勝る苦痛が多くありました。しかし平和が来たという悦びは日本人にその苦痛を耐えさせ、今おもえば「輝ける昭和」といわれるほどの成果の石杖を作ったといえます。
敗戦時私はまだ学生でしたから、先ずおもいだしますのは教育制度の変化で、当然それに翻弄されました。敗戦の時私の学年は旧制中学の4年生。旧制中学は4年と5年で旧制高校の受験が可能でした。しかし、両方落ちたので、1年浪人して旧制高校入学しました。旧制高校は1年で廃止されたので、新制東大に受験、合格し、新制東大を4年で卒業しました。これは一度しかない、変則な制度です。

終戦後の日本の教育方針は戦争が終わる数年まえ勝つ見込みの米国で決まっていたようです。敗戦後禁止されたのは、「教育勅語」を読むことに代表された全体主義教育で、個人主義教育に変わりました。具体的には学校制度は従来の義務教育が国民学校6年同高等科2年で、都合8年間だったのが、今の6・3制では9年間が義務教育に成り、これが小学校6年と中学校3年にわけて行なわれました。高等学校は旧制が廃止され、新制高校は3年となって新設され、大学は3年だったのが4年になりました。中学+高校+大学は3+3+4=10、ですの。
私の場合経過措置として、上記のような旧制中学5年、旧制高校1年、新制大学4年都合10年という形で新旧教育期間10年を合わせたのです。

この学制改革は昭和24年から行われ、新制高校が生まれ旧制高校が廃止されので,私は一年生だけの旧制がでそのあとは、3年から4年になった大学に入試を受けてはいりました。短期大学といわれる2年間の大学も生まれ、これは主に栄養・被服などの専門学校が整備され、大学となったものです。この変化は大学を高等教育というより教養の充実に重点をおくGHQの方針の一つでした。同時に従来の国立高等師範学校や尋常師範学校は高等専門学校は旧制高校が廃止されると同時に、普通の新制大学になり、東京商科大学(一ツ橋大)大阪商科大学(大阪大学)も普通の大学になりました。私立の東京六大学や東都六大学が私立大学となったほかに新たに上智、ICUなど数校の大学がうまれました。

これらの変化は主にアメリカの教育制度に準拠したもので、GHQは一県一大学の国立大学の設置に固執したようで、埼玉大学の設立などが良い例です。これは見かけ上旧制浦和高校が大学となったようですが、この設立以前に、旧制一校、浦和、東京高校の合併で新制東大ができていたので、旧制浦和、東京の教官は殆ど東大の教官になっていましたから大変不自然な形で埼玉大学は出来たのです。
旧来の日本の教育制度がヨーロッパに準拠していて、大学は研究が中心だったのが、一部教養を背負うことになったたので、帝国大学には大きな戸惑いが生まれようです。

新制の高校は新制の大学と関係なく作られたので、当然中学から高校へは入試がおこなわれ、可也の選別が行われていますが、後述の旧制高校入試と比べ遥かに楽です。従来は帝国大学の定員が旧制高校の定員と一致していたので旧制高校から大学へは殆ど選別がなく、簡単な入試ではいれた代わりに、旧制中学から旧制高校への入試は激しく、競争率が10倍以上になったのが普通で、旧制高校による違いより、旧制高校への合否の可否が大きく人生を左右し、旧制中学生を圧迫しました。入学できない人は私立の大学に進みました。これにも可也の競争があるのが普通でした。つまり受験が18歳で行われたので、18歳の選別といえそうです。後述する現在の欧州での12歳の選別に相当するといえそうです。

日本と米国が平和条約を結び、占領軍がいなくなった1950年以降もこの制度は継続し、以後制度上の変化はありません。(大学院制度の変化だけが例外です。)

この記事へのコメント

にくきゅう
2019年01月27日 21:53
はじめまして、善本先生。御著書の「木のはなし」を拝見してブログを訪問致しました。

「木のはなし」は細胞の話から強度の話まで、難しい事柄をわかりやすく、ユーモアを交えて語られていて面白く拝読しております。こういう面白い本を世に出して頂いた感謝をお伝えしたく、コメントさせて頂きました。気持ちが伝われば幸甚です。

ブログ記事の内容と関係のないコメントにはなってしまいますが、ご容赦ください。

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