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zoom RSS 爺の女性感(1)女友達

<<   作成日時 : 2019/01/11 17:47   >>

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私は88歳の男。もう数年前男性の機能を失った。その方面の欲望は昔から薄い方と思っている。40歳で結婚するまで女はを知らなかった。その後2児が生まれ、今大阪とデトロイトにいる。
1)15歳頃から女性に簡心を持つようになった。15歳で戦争は終わり、通学が始まった。今も覚えているが毎朝の通勤で必ず会う、女子高校生がいた当時第六高女(今三田高校)の生徒だった。二人とも意識しだしたが、私は声を掛けられなかったが、彼女が声を掛けてくれそうな機会が数度あった。その時私が応じたら、これで人生は始まったかもしれない。それは今思う話、名前も知らない。私の同級生に坂口さんという友人がいた。彼女はきれた「当時の女子学生は冴えていて、キレた、そんな女子学生があつまったの昭和25年ぐらいまで、以後は並みの出きる生徒になってしまった。そんなさえた能力を彼女らに感じなかったのだ。
2)女友達(東大の女子学生
東大に女子学生が入学したのは戦後である。旧制の最後に3人入ったのを憶えている、藤田さんという人が急性のさいご、新制になり、昭和24年に10人,その後少しづつ増え昭和35年には30人になった。3000人のうち30人、1000分の1だから、未だ誤差の範囲だ。そのゴミの一つが私の指導下に入るということになった。「事件」である。
こんなことはその後当たり前になってしまっhたが、あるところで止まってしまったらしい。昭和30年台の出来事は今ものさいご って「事件」といえる。
東大の女子学生というと世間は好奇の目で見がちであるが、前述の「女友達」の所で述べたように、美人もいればブーもいるが、世間の目でみると「世間並」と言えるか、むしろ女としては美人がおおい。40年も共に仕事をしている男の目でみるとそうである

大学に入って、初めて女友達にであった。それも格別の上玉だった。
昭和24年、入学したクラスにいた女性である。色白の美人で、中肉中背だった。クラスは40名、その二人だけが女性だった。当時は3000人中女性は10人、貴重品である。それが昭和34年になると30人になったのを憶えている。
その美人と何故か親密になった。彼女には彼がいるのを聞いてはいたが、私はそんなことにこだわらないタイプの男だったから、すぐ友達になった。それが彼女をリラックスさせてのであろう。それに彼女は卓球部にはいったから、私と同部、口を聞く機会もあったのだろう。みるみる内に仲良くなった。そして翌年には山中湖に一泊することに話は進んだ。勿論女性一人、男性一人同伴はすぐ決った。宿舎は当時はやっていたバンガロウ、つまりグループごとに1軒借りる、簡易宿舎で、男女同室である。
そこで何をしたか、忘れた。2泊だったと思う。山中湖にはバンガロウくらいしかなく、ボートさえ記憶にないから、何をしたのだろう。別れてから、同宿男女は帰郷後殆ど会った記憶がないから、4人同伴は我々二人の同宿の口実にすぎなかったのだろう。帰郷後二人は何度かあったが、デートらしき雰囲気のをした記憶はない。彼女が余りにも美人だったし、仲間の焼きもちもあったので遠慮をしたのかもしれない。
彼女は秀才だったから、当時劣等感に悩まされていた私は引っ込み治安だったのかもしれない。でも不思議に彼女は私に好意を示してくれた。私が80歳を過ぎた後日もはがきをくれた。
彼女は秀才で女性的。いろいろ女のことを教えてもらったのを憶えている。お茶大の付属のでて、数学科に進んだ。卒業後は高等女学校(確か桜陰)に就職し、教員となった。
勿論結婚式にも招待されたし、新婚宅にも呼ばれた。
私はそれを当時は幸せとも思わなかったが、今思えば大変な幸運だったようにおもう。私には後日大変多くの女性と知り合いになる機会があったが、彼女ほどの才媛には2度と会えなかった。
東大に女子学生が入学したのは戦後である。旧制の最後に3人入ったのを憶えているが、新制になり、昭和24年に10人,その後少しづつ増え昭和35年には30人になった。3000人のうち30人、1000分の1だから、未だ誤差の範囲だ。そのゴミの一つが私の指導下に入るということになった。「事件」である。
こんなことはその後当たり前になってしまっhたが、あるところで止まってしまったらしい。昭和30年台の出来事は今もって「事件」といえる。
東大の女子学生というと世間は好奇の目で見がちであるが、前述の「女友達」の所で述べたように、美人もいればブーもいるが、世間の目でみると「世間並」と言えるか、むしろ女としては美人がおおい。40年も共に仕事をしている男の目でみるとそうである

大学に入って、初めて女友達にであった。それも格別の上玉だった。
昭和24年、入学したクラスにいた女性である。色白の美人で、中肉中背だった。クラスは40名、その二人だけが女性だった。当時は3000人中女性は10人、貴重品である。それが昭和34年になると30人になったのを憶えている。
その美人と何故か親密になった。彼女には彼がいるのを聞いてはいたが、私はそんなことにこだわらないタイプの男だったから、すぐ友達になった。それが彼女をリラックスさせてのであろう。それに彼女は卓球部にはいったから、私と同部、口を聞く機会もあったのだろう。みるみる内に仲良くなった。そして翌年には山中湖に一泊することに話は進んだ。勿論女性一人、男性一人同伴はすぐ決った。宿舎は当時はやっていたバンガロウ、つまりグループごとに1軒借りる、簡易宿舎で、男女同室である。
そこで何をしたか、忘れた。2泊だったと思う。山中湖にはバンガロウくらいしかなく、ボートさえ記憶にないから、何をしたのだろう。別れてから、同宿男女は帰郷後殆ど会った記憶がないから、4人同伴は我々二人の同宿の口実にすぎなかったのだろう。帰郷後二人は何度かあったが、デートらしき雰囲気のをした記憶はない。彼女が余りにも美人だったし、仲間の焼きもちもあったので遠慮をしたのかもしれない。
彼女は秀才だったから、当時劣等感に悩まされていた私は引っ込み治安だったのかもしれない。でも不思議に彼女は私に好意を示してくれた。私が80歳を過ぎた後日もはがきをくれた。
彼女は秀才で女性的。いろいろ女のことを教えてもらったのを憶えている。お茶大の付属のでて、数学科に進んだ。卒業後は高等女学校(確か桜陰)に就職し、教員となった。
勿論結婚式にも招待されたし、新婚宅にも呼ばれた。
私はそれを当時は幸せとも思わなかったが、今思えば大変な幸運だったようにおもう。私には後日大変多くの女性と知り合いになる機会があったが、彼女ほどの才媛には2度と会えなかった。




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