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zoom RSS L自我の確立‥クラシック下

<<   作成日時 : 2019/01/11 17:23   >>

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新即物主義
再生装置が出来ると、クラシックの世界は急に広がります。勿論最初に関心をもったのはシゲティです。幸いなことに昭和30年ころはLPが高いけれど買えました。当時の世界を思い出します。
ヨーゼフ・シゲティは
1897年生まれのハンガリア人で1973年没です。

彼の自伝「弦によせて」の中に、私が感動したモーツアルトのヴァイオリン協奏曲4番についてこんな記載があります。曲の価値が時代によって大変違うと言う話です。
「ヨアヒム(ブラームスの知人)は、モーツアルトの二長調(kv218)4番のコンチェルトのような貴重な作品について、<とても可愛らしいものではあるが>という弁解をつけたりして、愛情のこもった態度ではあるが、半ばもったいぶった様子で書いている。」
こんな控えめな表現ですが、これはシゲティがデビューした当時のヴァイオリン界が変化の最中にあったことの例として示したのでした。
「私が、このような不十分な準備で1905年にベルリンに行ったとき、私は初めてこの驚くべき若いヴァイオリニスト(註エルマン)を聞いただけでなく、さらにクライスラー、イザイを聞いた。私はそれまで想像したことも無いような、情熱的で、優雅で、しかもリズムの鋭い彼らの演奏が私に及ぼした印象をはっきりさせるためには、私はコンセルヴァトワール時代に聞いたヴィルトゥオーソたち(ブルメスターとかクーベリックとかマルトーとかヘルマン)」のヴァイオリン演奏の様式を伝えることができなければならないだろう。しかしこれは明らかに不可能である。このような最初の印象は、あまりにも無定形で、そんなにたやすく言いあらわせるものではなかったし、わたしの判断力は、まだ批評にまで達していなかった。それにまた、あまりに学校で得た知識によってかたよっていた。ベルリンでは、わたしは自分だけを頼りにしていたが、けっきょくイザイやクライスラーとエルマンによってこの状態がひっくりかえされてしまったので、びっくり仰天していたのである。―――あの時代にはまだ演奏を続けていたブルメスター、クーベリック、とかマルトーを聞いた20年代音楽会の聴衆は、だれでもクライスラー、エルマン、ハイフェッツ、ティボーなどの印象と比較して、この二つのグループは、間違いなく一本の目にみえない境界線の反対側にいたことをはっきり知ったであろう。」

この次の時代に属するシゲティは新しいヴァイオリン界を意識して登場したのでしょう。それは後刻新即物主義と呼ばれましたが、シゲティ自身がその言葉を使っていたk、しりません。それがロマンチックな奏者の好むままのものでないのは確かです。
シゲティの演奏はどの演奏にも共通した傾向があり、音楽として惹きつけられますが、精神性と一言で一括するのには疑問があります。「精神性」と言う言葉は彼の演奏態度については常にいえても、作品の訴えるものは曲によって、違います。今まで名が出た曲について私見を述べますとこんな風にまとめられましょうか。
モーツアルトの第4協奏曲(LP)では清らかさ、人の心に訴えますから、精神性といえましょうが、プロコフィエフの第一ヴァイオリン協奏曲(LP)では反復される機械音とそれに直面して戸惑い悲鳴をあげる人間の叫びが感じられます。ラヴェルのソナタ(LP)は官能性が存在感を訴えます。この曲についてはラヴェルがピアノの存在を軽視するような演奏をしたとシゲティは「弦によせて」で述べていて、ピアノが表現とかかわらないところで存在感を示しているのを訴えていますが、大変個性的で魅力的な曲であるのは間違いありません。

なお彼のバッハの無伴奏ヴァイオリン曲6集(LP)はこの曲を最初に世に知らしたことで有名で、それは普通の人のバッハより精神に訴える演奏であるのは確かです。晩年の演奏がLPになっています。
モーツアルトのヴァイオリンソナタをホルショフスキーと演奏したCDが4枚でていますが、4ヴァイオリン協奏曲と似た感じのいい演奏です。多分テンポは普通の演奏家より遅いでしょうが、独特のボウイングの所為で魅力的な音となり、テンポと相まって人の心に働きかける音楽になっています。
1.3新即物主義のピアノ
シゲティ(1892〜1973)と殆ど同時代で新即物主義とみなさているピアニストにワルター・ギーゼキング(1895〜1956)がいるのは衆目の一致するところです。彼はシゲティと同年に来日しました。当時既に私はシゲティが好きだったけれど新即物主義には関心はありませんでしたので、ギーゼキングの来日に格別引かれませんでしたので、LPもモーツアルトのピアノソナタ全集(2)の5枚、それにドビュッシーが1枚だけ。それなのに今は大ファンです。何故大変好きになったのか、よくわかりませんが、どうもアーノンクールに熱中しだした1990年台からのようで、CDになってからです。もともとタッチの鋭いエミール・ギレリスが好きだったので、関係がありそうですが、実は、そうではなく当時熱をあげていたアーノンクールと関係がありそうだと今は思っています。理由はアーノンクールをとりあげるときに考えるつもりです。
あるときギーゼキングのモーツアルトを聞いた時、鋭いタッチが端正な音とともにロマン的な物を一切拒否した音楽として流れてきました。1990頃は死後50年は経っています。それからベートーヴェンの全集やお家芸とされるドビュッシーを買いました。今もっているCD.はEMIのベートーヴェンピアノソナタ選集3枚、モーツアルトピアノ全集4枚、ドビュッシーのピアノ全集4枚、menbran社の10枚組みCDで合わせえて25枚です。

ここであらためて断らなければならないのはギーゼキングは昭和27年(1953年当時)には私の趣味の対象外だったことです。ですからここで感想を述べるのは1990年以降に抱いた感想だということです。自分史として書き始めた本文ですから、ここでギーゼキングを入れるのは矛盾していますが、当時関心をもった新即物主義とは何だったのか、何故、シゲティに惹かれギーゼキングにそっぽをむいていたのか、それを考えるにはこの位置にギーゼキングを入れるべきだ、と思ったのです.従ってギーゼキングの感想は1990年以降に抱いたものです。

吉田秀和氏は「現代の演奏」(p177)でこう書いています。「私のみるところ、しかし、新即物主義から出発した音楽家にも、大きくいって、二つの傾向がある。ひとつはシゲティが典型的に示す物。もう一つはギーゼキングにみられもの」「音その物、即自的存在としての音の豊穣な展開」と吉田氏が指摘した傾向はあのカラヤンとの協奏曲をきいて理解てきました。カラヤンには音楽以外に余計なものがついている(例えば効果)ので私は嫌いですが、そのカラヤンがギーゼキングと数枚LPを作っています。音以外の物を拒否するギーゼキングとはとても合うまいと予想したのですが、実際聞いてみるとなかなかいい演奏になっています。「ピアノ全体を本当に楽譜の底まで鳴らしきる」(吉田氏)彼の演奏はカラヤンが音を深く、深く捉え鳴らす姿勢と上手くあったようで「ベートーヴェンの4番」「モーツアルトの25番」「グリーグの協奏曲」「シューマンの協奏曲」「フランクの交響変奏曲」が、みな中々の名演です。オーケストラはフィルハーモニアオケです。カラヤンがこれほど魅力的に聞こえるのは私には稀です。
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ギーゼキングには「ピアノとともに」と言う洒落た小著があります(1968年、白水社)。さまざまな思い出とともに、<モーツアルトのピアノ音楽>と言う小論があります。
その一節「モーツアルトを正しく演奏するための絶対の要件だと私の思う透明さを、できるかぎり引き出そうという願望こそ、わたしがペダルなしに演奏したことの必然の理由であった。純粋な、澄み切った音は、あるいはペダルに慣れた耳にははじめ無味乾燥に響くかも知れないが、じつはそうではないのである。―――わたしの個人的な確信を言うと、響きの純粋さと表現の美しさとは、完全に調和させることの出来るものである。それはちょうど、古典的形式のよる完璧な解釈が、作曲家のどんなに深い感情の力をも減ずることがないのと同然である。(註、ここにはギーゼキングの新即物主義者としての確信が述べられている)。
わたしがギーゼキングに90年代に引かれたのは正にモーツアルトの透明さです。彼のCDで全集4枚組み以前にモーツアルトの全集はマリア・ジョア・ピレシュ(LP)と内田光子(CD)をもっていました。この二人はギーゼキングのLPを聞いているはずです。しかし二人に「透明さ」はありません。

ギーゼキングのドビュシーの演奏は定評がありますが、彼の小著の「わたしはなぜドビュッシーをひくか」でこんなことを言っています.色々な作曲家の中には自然など全然存在しないも同然で、ただ四面の壁にかこまれて、いや、彼ら自身の自我のなかに閉じこもって、生きる人もある。例えばバッハは善良なキリスト教徒として自然を無視する場合、彼は万物を包摂する心のなかに彼の壮大な感情世界をおさめることができ、彼には神のみこころのままと思えた。世界秩序と調和して生きていたからこそ、自然を必要としなかったのだと考えていいだろう。−−−−
こんなふうに多くの作曲家は自然と自分とは異質な物とみなして、多少の差はあれ自然との強い対立関係に立っている。ドビュッシーは自然と争うことをしない。かれは自然の言葉に信頼の念にみちて聴きいり、控えめな態度で自然に近づく。」「ところでわたしにとってドビュッシーの響きの言葉が、どうしてはじめからそんなにまったく自然で自明のものに思えたのか、演奏の際になんの問題をおこさないほど自然なものに思えたのかを、究極的に解明しようと努力してみても、どうにも乗り越え難い困難にたちふさがれたような思いになるだけである。自分と全く一体化していると感じているために、そもそもどう違いうるのかがわからないほどである。−−−」

これはギーゼキングの生い立ち、育ちと関係があでしょう。彼は学校に行かず、両親の指導で育ち、自然の中で父の導きで昆虫を追いかける日々を送ったそうです。
こんな伸びやかな少年時代を送った、しかも頭がよく音楽的才能に恵まれた、彼のドビュシーがわたしにも極めて自然に捉えられ、魅力にみちたものになったのは想像に難くありません。それはかれのモーツアルトのピアノソナタに匹敵しました。

これらに比べるとベートヴェンのソナタには何処と無く不自然さがあります。新即物主義でテンポの伸縮の好まない彼はベートーヴェンも見事にひきますが、どこかに無理がありました。わたしの感じではテンポの設定に不自然さがあるのではないでしょうか。楽々と早くひいてしまいます。シゲティーがあのスプリング・ソナタを普通より大変遅く弾くといったような工夫はギーゼキングにはありません。そこで出来た物に際立ったのがなかったのではないでしょうか。アパッショナータをエドウィン・フィッシャーのと比べると、ギーゼキングには歌はあってもドラマがないのをかんじます。その結果か、実在感が希薄を生むのでしょう。

ここで昭和30年ごろまで、シゲティにのみ心酔したのは彼に潜むロマン的なものに若干私は惹かれていたのではないか、と今2013年には思っています。以後序序にそれが邪魔になるのは確かです。

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