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zoom RSS (1)少年時代と戦争(上)(2015年パワフル健康食品(株)での講演)

<<   作成日時 : 2018/07/11 09:41   >>

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1、転居
初めて私の喘息に親が気づいたのは、4歳のころと聞いています。そこで小学校に入るとき、空気のいい家への引っ越しを親は考えたようで、本来なら駅から5分の向原小学校へはいるのに、15分の碑小学校へ入れる決心をし、その間当時あった寄留制度をつかって、知人の家に住んでいることにし、一方、碑小学校の近くに家を建てはじめました。完成は支那事変が起きた昭和12年でした。2年生の夏でした。転居は喘息にいい、と当時はいわれていたけど、私の喘息はよくなりませんでした。そこで神頼みがはじまりました。先ず転居の方向が悪かったとの判断。神主さんが来てお祓いをしたのを憶えています。次は家の材料への不信。今思うと当時から米杉が喘息に悪いという噂はあったようです。ところが今思うと、わが家の木材は国産の杉でしたから、米杉と国産の杉とは種類が違い、国産の杉は喘息に悪い成分はなく当時の評判は無関係でした。
当時の事で戦争と関係する想い出は、小学校1年入学のための身体検査が2,26事件の当日だったことです。2,26事件は陸軍の若手将校が起こした内部の反乱で首相など内閣の首脳が殺された事件でこれは、陸軍が中心で起こす満州事変の先駆けだったのです。

2、小学生時代
学校にはいっても夜中は、勿論喘息です。夜が明け、サイレンが聞こえてから家を飛び出しても間に合う学校でしたが、欠席は大変多かったから、担任の先生は進級のための出欠の辻褄あわせに大変困られたことでしょう。下記の記録が通信簿にありました。1年生出席239日【欠席9日)2年生出出席245日(欠席4日)3年生出213日(欠席34日)4年生出席197日(欠席51日)

小学一年のとき、クラス仲間のお父さんに戦争の影が及んできた2事件がありました。1つは長谷川さんの満州への別離事件、もう一つは辺野喜さんのお父さんの戦死。二人とも好きな女の子だったせいか、よく覚えています。

4年生は欠席が51日だったのに、5年生は66日、6年生は76日も学校を欠席しました。深夜に苦しんだので先生に夜中に往診をお願いしたのも屡でした。先生は村田という元軍医海軍中佐の先生。両親が遠慮勝ちに電話をすると先生は何時でも着て下さって八畳間で注射をしたのを今でもおぼえています。ところが先生はエフェドリンなどという喘息薬ではなく、強心剤だけを注射して、「知孝ちゃん、喘息では死なないからね」という言葉を残してかえられました。当時少し先生を恨みましたが、これが副作用を避け私の体によかったせいで、88歳までいきられた一因と思います。
3年生から急に欠席がおおくなっています。それでも、3年生の頃は野球のリーダーとして「ヨッチン」の名は通っていました。昼な野球、夜は喘息、それが私の日々でした。前記可部さんの著書の冒頭にこんな文句ベ。
「喘息とは、急に呼吸が苦しくなり、ヒュウヒュウとか、ゼイゼイという音が呼吸のたびにして、努力をしなければ空気を吸ったりだしたりできなくなりますが、いったん治まるとケロッとして、何ともなくなってしまう病気です」
まことに名医の名言です。

喘息は学年がすすむにつれて悪くなっていったようでした。5年の欠席は66日、6年は76日。

「急性の発作は夜起こることが多く、患者は夜半過ぎから明け方にかけ、胸部を締め付け、圧迫され、窒息するような感じにおそわれ目覚め、しだいに息が苦しくなり、より多く楽に空気を吸えるようにと起きあがり、椅子に座るか、布団にもたれ、あるいは膝に肘をつき、頭を垂れて、胸にうずめ、あえぐように呼吸します。可部さんの著書にはこうありました。

4年生の事です。音楽専任の怖い中川先生が私の所に見えて、「放課後私も所に来るように」といわれました。「ヨッチンはきっと野球の話だよ、」と仲間の噂。「唱歌には鈴木肇という名人がいる」、というのが、大方の説。
放課後コワゴワ中川先生の所に行くと、「君の声がいいから、練習しビクターの独唱コンクールにでてみないか。」喘息小僧に声を使えと、言われ母はよろこんでいましたが、受けてみると失敗。「じゃ、東京放送(今のNHK)の少年児童合唱団に先生が力を持っているから、練習してでてみないか。」との提案。放送にはでられて。これは無事合格。お陰で喘息小僧だったけれど、悪童の仲間にいれてもらえました。6年生の時、戦争が始まってしまい、そして37歳の時碑文谷から清瀬に引っ越したので、同窓会は一度でていません。きっと何処かで彼らは集まっているに違いない。どこかで誰かに会いたいとよく、思い、「喘息小僧でも未だ生きてるぞ」と、叫びたい気持ちです。

こうして喘息と学校が当面の敵で、戦争は小学生の私には大きな影響を与えなかったのですが!

3 中学生時代
そんな病弱な私は父母の悩みの種だったのでしょう。学校の傍に越したのに、私はいつも家にいました。学年が進むごとに体は悪くなり、5,6年生は欠席ばかり。(5年生は出席180日欠席66日、6年生は出席189日欠席76日)だから中学へ進むのも難しく、父母は悩んだようで、当時は中学へ行かなければ2年間の高等科へ進むのが義務教育でしたから、そのことも頭にあったようでした。それが小学校の担任佐原先生のご尽力もあって私立芝中学校に試験を受け、入学を許可されました。クラス50人中5番以内で入ったようですが、試験後すぐ18番に落ちたのは今でも覚えています。出席は219日欠席60とこれは小学校時代と変わり映えしません。

4 中学生時代と学徒動員

1年生は出席は219日欠席60とこれは小学校時代と変わり映えしません。

2年の最初中間試験の時事件があるました。中間テストの結果を聞きに、母が珍しく行ってくれましたが、成績順に呼ばれるのも知らなかった母はとうとう最期まで待っていたそうです。最後の生徒が呼ばれたので、母は恐る恐る草野先生のところに行くと、何と一番最初に呼ばれたとのこと、緊張の余り、母の耳には入らなかった。
今思えばこれが出来る子への転機だったようです。
これは昭和18年(2年生)初夏の出来事。でも2年生の出席は211日欠席は39日と変わり映えしません。

3年生は勉強など出来ませんでした。3年生の通信簿は1学期しか残っていません。後の出席状態の記録もありません。だから欠席の多い生徒という汚名は私から消えました。

3年生は今の学生には全く思いつかない日々でした。池上にある茅場製作所で飛行機の脚を作る仕事をさせられたのです。西小山から反対方向に電車にのり、蒲田で池上線に乗り換え、池上でおりたのですから通学と言えなくはありませんが,出欠は残っていません。50人ばかりの生徒が皆同じ仕事をしたのではなく、私は体が弱いということで50人中1人だけ事務職の手伝いをさせられましたが、他の人は工場で作業の手伝いをさせられたのでした。余り休んだ記憶もない。でもそれも長くは続きませんでした。昭和20年に入ると空襲警報が絶えず発せられる日々になりました。私は直接米軍機と接したのは一度機銃掃射をうけただけですが、下町から通っていた友は3月10日の大空襲で家を焼かれ、秀才だった丸山が死にました。それでも会社に毎日通いましたが、5月にはその会社も焼かれ、私たちは行き場がなくなりました。
私のお家も勿論空襲にあいました。3月10日は遠くの火災でしたが、5月に入っての焼夷弾空襲は日々身近な事件となりました。お家にはおちませんでしたが、家から3分にあるバス通り(バスは戦後通った渋谷―洗足池)の向かうは度重なる空襲で広大な焼け跡になったのです。その延焼が父のお家の一画にはおよばなかったのです。つまり戦前最後の住宅街、周囲は殆どが畑でしたから、焼けようがありません。

「本格的東京空襲があったのは昭和20年に入ってからですし、母が死んだのはその年の1月ですから、本格的空襲を知らずに他界したことになります。
この頃に喘息の記憶がないから、当時は忘れていたのかもしれません。

5 酷い喘息(中学上級生時代)
4年生の夏、戦争が終わって日常生活になったら、喘息が復活した。勤労動員のときにが何でもなかったのに。
学校へ行っても教 科書がなかったから、先生のノートでの講義だった。生徒は其れを写すのが勉強、私もように学校に出られない生徒には方策がない。幸いなことに、一緒に工場へいった木村という友達が毎日のようにノートをもって我が家にきてくれた。それも大変なので彼は講義を急いで二つ作り。毎週もってきてくれた。彼は10年前にしんでしまった。私は生涯それを恩義に感じ、わすれなかった。彼は慶応、私は東大で会う機会は少なかったが。
酷い喘息は前記可部さんの本にあります。「急性の発作は夜おこうことが多く、患者は夜半すぎから明け方にかけて胸部を締め付けられ、圧迫され、」窒息するような感じにおそわれて目覚め」、次第に呼吸がくるしくなり、より多く、より楽に空気をすえるようにと起きあがり、椅子に座るか布団にもたれ、あるいは肘を膝につき、頭をたれて胸にうずめ、あえぐように呼吸をします。」

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