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zoom RSS 小さなお家と戦争2(深夜のうめき声)

<<   作成日時 : 2018/02/13 15:13   >>

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私の健康とは関係なく、時代は暗闇に向かって走り出していて、昭和11年には2、26事変、昭和12年には支那事変が起こり、昭和16年12月には大東亜戦争に突入してしまいました。父の「小さなお家」は滑り込みセーフで建ったといえましょう。
この時代には建売などはなく、家は自分で建てたものでした。今の建売と違うのは土地は買うのではなく、土地を借りるということでした。つまり借地代がリミットになって家の大きさが決められたのです。私の家もそうでした。親父としては先ず80坪前後の土地に30坪の家を車道から横丁へ50メートルほど入った右手につくり、奥に30坪を残し、いずれそこも借りるという魂胆だったのでしょうが、我が家が建ったときにはその30坪には家が建っていました。
当時は普通平屋で私の家もそうでした。間取りは八畳一間、六畳二間(一間が洋間)、四畳半二間,三畳二間で、当事六畳が私の寝室でしたが、深夜に発作が起き、呻き声をあげるので、年をとるにつれ、八畳に移されルことが多くなり,やがて8畳が寝室(=病室)になっていきました。そこは床の間が二つある客間でした。
 家からは子供の声が聞こえるほど学校は近くでしたが、学校との間には一群の家があってそれを回って数分かけ通学するのが正式でしたが、それらの小さな家と家の間には隙間があり、そこをとおりぬければ小学校へは一分もかかりませんでした。

喘息は学校に入る頃から年年悪くなったようで、通信簿をみると、1〜3年生では目立たなかった欠席も、4年生は51日なのに5年生は66日、6年生は76日です。4年生までの喘息の苦しさは憶えていませんが、高学年は今もおぼえている程、大変に苦しく、而も深夜発作が起き空の白むころには楽になったから、毎日深夜が恐ろしく、明け方を待つ日々でした。

八畳は離れで、苦しくて呻こうと余り妹や弟に気づかれなかったのですが、丑みつ時になると母が来て背中をさすってくれました。それを私は当たり前のように思っていたのです。
お医者は当時深夜でも往診をしてくれました。12時前から苦しくなるのを予測できたので、お医者である村田先生に往診を依頼して欲しいと私は駄々をこねたのですが、父母は先生への迷惑を考慮し、なかなか応じませんでした。それでもどうにもならないと予測すると電話をかけてくれました。<八畳間で先生に注射をされたのは今でも憶えていますが、エフェドリンなど喘息の特効薬は使わず、普通は強心剤をうって帰られたようです。それでも何となく楽になった気がし、空の白まないうちに眠りにつけました。(この強心剤だけの処置だったのは、私が88歳の今日まで生きるのに寄与したようです。)
こんな離れでの日々は5,6年生のころは当たり前になりました。深夜の騒動は近所の住民にさえ知られたようですが、騒音として捕らえられず、お気の毒にと同情されたようです。何せ離れは隣家も近かったのです。

3〜6年生の酷い発作はどうしてだったのでしょう。今もわかりませんが、老年に近づくと発作が弱くなったことを思うと、一種の生命力と関わり、それが強くなったとき発作も強くなる、と今は思ってます。喘息が酷くなったときは、命の力も強いと思い、我慢するのが最適だったでしょう。
無理に喘息を抑えつけない、村田先生の治療には今は賛成です。


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