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zoom RSS 少年時代と戦争4(支那事変ー小学校上級生)

<<   作成日時 : 2018/02/03 10:37   >>

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(開戦)支那事変は昭和12年7月7日に起きました。当時私は小学2年生でしたが、記憶が少しあります。でも戦争が始まったという実感は薄く、日本軍が悪い中国人を懲らしめるため、日本国土の一部となった満州を守るため、そこから中国本土になだれ込んだという風に教えられました。事変の発端が中国軍のいる盧溝橋で始まったので、盧溝橋事件と当初は呼ばれていたのが、いつか支那事変と呼ばれるようになり、日中戦争といわず、ここでも事変という奇妙な言葉が使われました。戦争という言葉を使わなかったのは海外への影響、特に対米政策の一部でもあったようです。日本は当時石油、鉄鋼、綿、銅をアメリカから輸入していたので、戦争という言葉使うとアメリカから輸入できなくなり、それを避けたかったという事情があったようでした。

私たちの日常に出征兵士とか招集令状とかいう言葉が使われ始めたのは支那事変が始まったころです。昨日まで近所の御用聞きだったお兄さんが、ある日戸外に彼を中心に近所の人が集まって、「万歳」と叫ぶ会がひらかれ、兵隊さんになりました。

当時の兵隊はこんな仕組みで出来ました。徴兵検査で甲種合格になった20歳の若者は教育のために軍隊に入り、2年間訓練されると現役兵になる。現役兵は2年間経過すると、予備役となります。予備役の彼らは戦時の召集を待つのですが、その猶予期間は5年4ヶ月でした。予備役の終わったもの全員が後備役になりますが、その期間は10年間で、戦時召集に応ずる義務がありました。これが当時の皆兵制度です。甲種以外乙種、丙種もありました。
召集されると皆兵隊さんと呼ばれましたが、支那事変当時召集されたのは現役兵ではなく予備役だったそうです。一度社会の波を被ったから人だから、余り強くない兵隊。強い兵隊は現役兵です。これは後から知ったことですが、陸軍は対ソ連戦争のため、強い現役兵を出し惜しみし、臨時に集められた予備役を支那のために使ったそうです。

身近の話では、富屋という酒屋の泰ちゃんは親しい青年でした。彼が出征したのは支那事変の晩年でした。彼からスケッチを沢山もらい、今も手元にありますが、平和だったら彼は絵描きになっていたでしょうが、ビルマのインパール作戦で戦死したと戦後聞きました。私は1970年台にタイへ行ったとき、ビルマとの国境カンチャナブリで慰霊碑に手を合わせたことでした。泰ちゃんを思ってのことです。

12年7月支那事変がはじまりましたが、その前に忘れられない事件がありました。226事件です。昭和11年2月26日に東京で起きた事件のことで、「2月26日は私の小学校入学のための身体検査の日で、小雪まじりの悪天候の日だった」と母から何度も聞かされました。勿論当日は事件をしりません。これは陸軍内部の分裂で、決起派は多くの首相ら要人を殺すという惨事を起こしあそうです。

支那事変の前、昭和11年7月には目黒区碑文谷の新築家屋に我々は越していましたが、やがて「物資が欠乏している」という両親の言葉を耳にしだしたのを覚えてます。家を建てるカスカス・セーフの時期だったといえましょう。経済的な問題ですが、財政支出中軍事費の割合が1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)までは一定で、平時経済といっていい程度だったのに、1937年(昭和12年)支那との戦争開始後は、軍事費の割合が急上昇し戦時経済になりました。その所為で庶民には物資が欠乏してきたと思われたのでしょう。

万里の長城を超え支那本土に入るのは天皇は禁止したそうですが、関東軍司令官の命令でおこなわれたようで、色々な思惑や策略が日本陸軍内部にあったようです。これを防御する支那側は上海周辺に、ドイツ顧問団をおいて、その助けを借りたので、8万の精鋭と一般軍人30万がいたそうです。
これに対し日本軍は最初は海軍の5000名だけ、陸軍は寧ろソ連戦に備えたかったようです。それが8月から10月には徐々に陸軍も加わった戦争になり、11月には大勢が決まって、日本が勝ち、中国軍は南京にむけ退却したそうです。この間中国軍は19万が犠牲になったと言われています。上海陥落を祝うため、国民は小学生さえ、提灯を片手に夜、行進したのを私は憶えています。当時の分類だと1年間戦った兵隊のうち現役軍人はわずか16,9%、他は予備役という新たに借り出された男子だったそうで、この戦いへの陸軍の熱意が薄かったのが、うかがえます。彼らは所謂召集された、軍人意識が少い兵隊で、彼らが戦地で略奪、殺戮、強姦など、軍人らしくない行動をした主役だったようです。南京への行進は10月末のこと、食料を運ぶ輜重隊が兵隊に追いつかず、兵隊がやむを得ず略奪をやったという側面もあったようです。

12月8日には南京に達し、そこで行われた軍の暴挙は、今もって存否が論ぜられていますが、当時、私たち小学生の耳にも、「チャンコロ(中国人)の首を切って予め掘っておいた穴に落とした」などという中国人を蔑視する伝聞がはいったのを憶えています。小学生の耳にさえです。この話きっと南京絡みでしょうから、今時南京事件の存否が論じてられているのが、不思議です。「中国人は動物以下で、どう扱ってもいい」と内地の子供にも思わせる風潮があったことは確かです。恥ずかしいことですが、報道管制が引かれていたから、新聞やラジオを通じてではなく、口込みの筈です。それだけに、細部に間違いもあるものの真実性も強いと私は思います。
(この頃大本営が出来たそうで、以後正式には大本営発表というかたちでわれわれは知ることになります。)

南京陥落は1937年12月のことで,実は中国側は初めから南京の放棄は決めていたようです。しかし日本軍の兵隊は南京陥落で戦争が終わったと喜んだようです。小学生さえ旗行列や提灯行列で、勝利を祝った程でしたす。ところが真実はそうではなかったのです。
翌38年にも日本軍は更に戦争を拡大しました。今でも憶えているのは武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)の攻略です。この事実は旗行列をしたのでおぼえています。この戦いで蒋介石軍を攻めつぶしたので、「敵は蒋介石」とわれわれは教えこまれていましたから、これで戦争終結と考えました。ところが1939年ごろから英米との関係が悪くなり、彼らは日本の戦略物資の輸入断絶をはかりだしました。新聞もそのことを伝え始めていました。つまり1938年の武漢三鎮の攻略で支那事変は事実上終わったと兵隊も我々も思ったのですが、裏事情は兎も角、和平交渉はなく日本は勝利を曖昧にしたまま、次の事件に突入したのです。

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