善本知孝のブログーOpera-Crasy

アクセスカウンタ

zoom RSS 喘息(77)主治医(村田先生)

<<   作成日時 : 2017/04/23 14:14   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像

前回「喘息ブログ(76)」を書いたのは去年2016年5月29日でしたから、1年ぶりです。今喘息は殆ど出ませんが、警戒は怠りません。もう87歳、生まれつき蒲柳の質なのによく、これまで生きられたと思います。いつもお医者に通っていますし、後遺症である肺気腫で、今は身体障碍者の3級をいただき、歩行時には液体酸素を毎分3リットル吸っているのですが。そのため毎月一度清瀬の複十字病院にかよっています。
肺炎の危険を背負っているので、この1年間風邪さえ引かずに過ごせたのは上出来といえるでしょう。主治医である尾形先生の診断と処置方法が良かった証拠でもあるのしょう。そこで1年無事故を記念して過去の「主治医」のことを思い出してみたくなりました。
4歳の時発病と聞いています。当時は目黒に住んでいました。町のお医者に罹った記憶がありますから、今まで世話になったお医者は10人近い。思いだせないことはありませんが、他人の役に立つとも思わないので、学校に入ってからの、それも比較的長期間お世話になった先生だけに話題を限ります。 
小学校からお世話になったのは村田俊雄先生。先生は.元海軍中尉の軍医でした。深夜の往診もいとわない方でしたが、「喘息発作程度で、死ぬことはない」といって気管支拡張剤エフェドリンを、余り注射してくれず、深夜の往診時でさえ、診察後、強心剤だけの注射で帰られました。エフェドリンが体に悪いと信じておられたらしく、この教えは私の生涯の教訓になりました。楽にしてくれない喘息医という、印象が今も残っています。87歳まで生きられたのは、中学当時の喘息仲間3人は皆30歳までに死んだのは、エフェドリンのやりすぎと教えてくださった村田先生のせいで私は今もおもっています。

先生との付き合いは30歳ぐらいで終わりになり、その後大学院生、社会人と変わり、さまざまなお医者の世話になりましたが、50歳の時です。30年來の親友で医師の蓮江からのアドバイスで、少し本格的な喘息の先生にかかることにしました。「もう仲間も名医になったから」という理由で同級生(彼と私の同学年)の可部君を紹介してくれました。以後10数年、可部先生が主治医となりました。当時は50歳くらい、社会的に認知されていい年齢でした。私は東大農学部教授、同年齢の可部順三郎先生は国立病院医療センターの呼吸器科の医長でした。つまりそれまでの専門が特にはない町医者と違って、彼は呼吸器の専門医でした。呼吸器の専門医が初めて喘息患者の主治医となったのです。
当時(1980年)の日本の医療制度はこんなものだったのです。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
喘息(77)主治医(村田先生) 善本知孝のブログーOpera-Crasy/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる