善本知孝のブログーOpera-Crasy

アクセスカウンタ

zoom RSS 喘息69 小さなお家4(中学生時代と学徒動員)

<<   作成日時 : 2015/04/17 09:31   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
                       入学式1年5組
そんな私は父母の悩みの種だったのでしょう。学校の傍に越したのに、私はいつも家にいました。学年が進むごとに体はわるくなり、5,6年生は欠席ばかり、碑文谷のお家にばかりいました。(5年生は出席180日欠席66日、6年生は出席189日欠席76日)だから中学へ進むのも難しく、父母は悩んだようで、当時は中学へ行かなければ2年間の高等科へ進むのが義務教育でしたから、そのことも頭にあったようでした。それが小学校の担任佐原先生のご尽力もあって私立芝中学校に試験を受け、入学を許可されました。クラス50人中5番以内で入ったようですが、試験後すぐ18番に落ちたのは今でも覚えています。出席は219日欠席60とこれは小学校時代と変わり映えしません。

2年生に進学は出来たものの、最初の中間テストの結果を聞きに、母が行ってくれましたが、成績順に先生に呼ばれるのも知らなかった母はとうとう最期まで待っていたそうです。最後の生徒が呼ばれたので、母は恐る恐る先生のところに行くと、何と一番最初に呼ばれたとのこと、緊張の余り、母の耳には入らなかったようです。
私のお家は車道から50メートル入った横町にあります。1メートルくらい坂を上る感じの右側にあり、突き当たりが行き止まりで2軒の入り口です。私は成績を知りたく門の前に立っていました。その道を当時既に体が弱くなっていた母が和服姿でとぼとぼ上ってきました。「どうだった、おかあさん」「どうだったもないわよ」と。家に入って経過を話すお母さん。涙こそ見せなかったけれど、本当に嬉しそうでした。私は母親孝行ということが何も出来ずに母を送ることになりましたが、強いていえばこの一回だけが親孝行といえるでしょう。母が歩いてきた先にある黒門が国宝円融寺の裏門です。ここは樹木が鬱蒼としているわりあいには、道が完備しているので、私の散歩道でした。大好きになったのは大学時代からですが、この頃もよく行ったものです。その左が母校の碑(イシブミ)小学校です。病身だった私の青春の思い出はすべてここにつまっています。
これは昭和18年(2年生)初夏の出来事。でも2年生の出席は211日欠席は39日と変わり映えしません。

2年生のときには事件が起きました。
秋からは学生動員の一翼を担わされ、強制疎開という線路の両側の家を壊す仕事に狩り出されました。大井町と大森の間にある線路ぎわの立派な家を壊す仕事でした。私のお家より立派な家ばかりでした。若いこともあったでしょうが、建て主の気持ちを察することもなく、こんなことを2ヶ月もやったと思います。でもこれは一応出欠をとられ、正規の課業の扱いを取っていました。

3年生は勉強など出来ませんでした。3年生の通信簿は残っていません。だから欠席の多い生徒という汚名は消えました。
画像
                   通信簿(左3年、右2年)

学校との縁がもっと希薄になりました。3年生は今の学生には全く思いつかない日々でした。池上にある茅場製作所で飛行機の脚を作る仕事をさせられたのです。西小山から反対方向に電車にのり、蒲田で池上線に乗り換え、池上でおりたのですから通学と言えなくはありませんが,出欠は残っていません。50人ばかりの生徒が皆同じ仕事をしたのではなく、私は体が弱いということで50人中一人だけ事務職の手伝いをさせられましたが、他の人は工場で作業の手伝いをさせられたのでした。それも長くは続きませんでした。昭和20年に入ると空襲警報が絶えず発せられる日々になりました。私は直接米軍機と接したのは一度機銃掃射をうけただけですが、下町から通っていた友は3月10日の大空襲で家を焼かれ、秀才だった丸山が死にました。それでも会社に毎日通いましたが、5月にはその会社も焼かれ、私たちは行き場がなくなりました。
私のお家も勿論空襲にあいました。3月10日は遠くの火災でしたが、5月に入っての焼夷弾空襲は日々身近な事件となりました。お家にはおちませんでしたが、家から3分にあるバス通り(バスは戦後通った渋谷―洗足池)の向かうは旅重なる空襲で広大な焼け跡になったのです。その延焼がお家の一画にはおよばなかったのです。つまり戦前最後の住宅街、周囲は殆どが畑でしたから、焼けようがありません。
私のお家は所謂焼け残ったことになりましたが、それが幸いだったか不幸だったかは10年以上たってから序序にわかったことです。それから70年たった今私のお家は昔の場所にありますが、焼けた多くの家は30年以降改築されました。それが近時はほとんどの家も建坪が半分になった貧しいただ住まいになっています。私の家は敷地は80坪くらいあって、近隣では広い方でしたが、これも歳月の流れに抗しきれず昭和58年7月、当時周辺の家々同様建坪が今は半分、そして回りの家は、敷地30坪、建坪15坪前後の家の塊になっています。中には15坪に2階建てと言うのも在り,しかも、それが並んでいるのではなく、塊(集団)になっているのですから、親父が夢みた新興住宅街の面影は皆無です。目黒区という土地は多かれ少なかれ、かっての新興地でゆったりしていたのが、今はこんな状態になり、住みたい土地「目黒」などというアンケート結果が何故出たのか不思議に思いたくなります。西洋人と違い日本人はゴミゴミしたのが好きという性質のアンケート結果ながら最もですが。

「本格的東京空襲があったのは昭和20年に入ってからですし、母が死んだのはその年の1月ですから、本格的空襲を知らずに他界したことになります。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
喘息69 小さなお家4(中学生時代と学徒動員) 善本知孝のブログーOpera-Crasy/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる